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ベートーヴェンのソナタから受けた力強い印象 – 津田理子さんのピアノ・リサイタルを聴いて

コンサートが始まる直前。受付にて swissinfo.ch

津田理子さんはスイスを拠点に活躍する国際的ピアニストだ。スイス、日本、アメリカを舞台に精力的な演奏活動を続けられている。今日は、日本とスイスを音楽を通して結ぶ津田さんの音楽と芸術について、私の個人的な想いを語りたい。

  去る10月31日に、日本スイス国交樹立150周年記念事業の一環としてアヤメ基金の主催で開催された計四回にわたる「津田理子ピアノ・リサイタル Just Beethoven」の第一回を聴きにイタリア語圏スイスのルガーノ(Lugano)へ行ってきた。ルガーノは南国の香り漂う湖畔の街で、穏やかな晴天に恵まれた週末に、まさに芸術の秋を堪能することができた。

秋の光の優しいルガーノ swissinfo.ch

 日本人としてだけでなく、スイスを拠点に活躍するピアニストとして津田理子さんの名前をご存知の方も多いと思う。私もクラッシック音楽愛好家として、津田さんを尊敬しているファンの一人だが、それと同時に縁あって個人的に親しくしていただき、音楽家という枠に留まらない津田さんの人間性を慕っている。

 4歳でピアノを始められ、7歳でモーツァルトのピアノ協奏曲を公開演奏されたほどの楽才豊かな津田さんは、東京芸術大学在学中に今は亡き私の父が教えていたコントラバスクラスで伴奏をしてくださっていた。今から思えば津田さんに伴奏をしていただくとは贅沢な教室で羨ましい限りだ。それから40年経って私が津田さんと同じスイスに住みその芸術に近く触れていることを考えると、縁というのは何とも不思議でありがたいものだと思う。

 日本で学び、学生コンクールに度々優勝された後に、津田さんはブリュッセル音楽院に留学、1976年のハエン国際ピアノコンクール優勝、78年のチリ国際ピアノコンクール第2位をはじめとして数々の賞を受け、現在は「津田理子ムジーク・トレッフェン(MICHIKO TSUDA MUSIC TREFFEN)」と銘打ったソロ、室内楽のリサイタル活動の他に、オーケストラとの共演など、スイス、ヨーロッパ、日本、南北アメリカでの幅広い演奏活動を行っている。

 私生活では、ダニエル・シュヴァイツァー(Daniel Schweizer)さんと結婚し、1980年以来チューリヒ(Zürich)に住んでいる。指揮者であるダニエルさんにとって、津田さんは大切な人生の伴侶であり、二人の息子さんのよき母であると同時に、大切な音楽のパートナーでもある。

 チューリヒ交響楽団(Symphonische Orchester Zürich)を設立、さらに自身のオーケストラであるODS-productions外部リンクを立ち上げたダニエルさんは、ソリストとしての津田さんとの数々のピアノ協奏曲の演奏でお互いの理想とする形の音楽を作り上げてきた。

 2010年、そのダニエルさんを突然病が襲った。死を覚悟しなくてはならないほどの大病だったが、懸命の闘病生活を続け、2013年に念願の復帰を果たされた。もちろん現在も闘病生活と完全復帰に向けてのリハビリテーションは続き、津田さんと息子さんたちが懸命の看病と介護を続けている。

会場のルガーノ パラッツォ・デル・コングレシ(Palazzo del Congressi) swissinfo.ch

 私がルガーノで聴いた今回のリサイタルは、日本スイス国交樹立150周年を記念してアヤメ基金外部リンクの主催で開催された。曲目はすべてベートーヴェンのソナタ(4番、14番、21番、28番)で、このような構成は珍しいけれど、ベートーヴェンを大好きな私にはとても嬉しいプログラムだった。さらに、津田さんご本人がそれを意識されたかはわからないけれど、人生の苦しみに負けずに素晴らしい音楽を生み出したベートーヴェンの曲が演奏された。それを津田さんの演奏で聴いたことに意味があるように思った。

 二人のお子さんを育て上げられた今、もし何もなければ、津田さんとダニエルさんは豊かな才能とこれまでのキャリアと努力を花ひらかせ、もっと自由に音楽のことだけを考えて活動できたと思う。そんな時に突然訪れたダニエルさんの闘病と看病の日々が、作曲家として演奏家として絶頂を迎えようとしていたベートーヴェンを襲った難聴という苦悩に重なる。

演奏中の津田さん(写真提供:津田理子公式ホームページ) swissinfo.ch

 津田さんの演奏を聴きながら感じたのはなんといってもその演奏の力強さだった。それは鍵盤を叩く力の強弱のことではない。繊細なピアニッシモ、華麗な装飾和音、朗らかなフォルテ、それに哲学的な緩徐楽章と、津田さんの表現力は豊かだ。それでも、私がもっとも強く感じたのはその安定した演奏からにじみ出る人としての強靭さだった。

 たとえ津田さんほどの演奏家であっても、楽譜を広げてピアノの前に座るだけで自動的にあの演奏ができるわけではない。気が遠くなるほどの練習と弾き込みを経て、あの安定した素晴らしい音色に達するのだ。同じ演奏家であった父の日々の努力を知らなければ、きっと私はそのことにまったく思い至らなかったと思う。

 そうした津田さんの音楽に向けることのできる時間は、ダニエルさんの看護や心配で制限を受けたに違いない。そのハンデを全く感じさせない素晴らしい演奏には驚くばかりだ。一方で、今回の演奏を耳にして、この果てしない病との戦いが津田さんの音楽に別の影響をも与えたのではないかとも感じた。

 私が同じ立場に置かれたら、「大変なので演奏活動は休もう」と決めてしまったかもしれない。けれど、津田さんはそれをしなかった。息子さんたちの協力のもと、ダニエルさんのほとんどの介護をこなしながら、演奏活動を続けてこられた。それは、とても強い意志がないとできないことだ。

主催のアヤメ基金理事長の野川等さんと津田さん swissinfo.ch

 津田さんがどんなことがあっても演奏活動を続けてこられたのは、ご自身のためだけではなく、ダニエルさんと二人三脚で作り上げてきた音楽を、ダニエルさんが完全復帰するまで守り続け、また一緒に作り続けようという強い意志の表れだと思う。

 困難がある時、少しでも楽な方に流れていってしまうのは人間の常だ。例えば、私もスイスという外国に移住して社会生活を営む時に「ドイツ語が得意ではないから」「外国人だから」という理由で消極的になってしまうことがある。

 けれど、それの怖れや困難があっても克服し自分のやりたいことを実現しようと決めた時、その決意には与えられた簡単なことをただこなすよりもずっと強い力がこもる。

 ベートーヴェンのロマンティックで、美しく、時に華やかな音楽に心奪われる時、私は彼を襲った苦悩のことはあまり考えない。ベートーヴェンはそれを超え、昇華させて、もっと普遍的な芸術を創り出した。それを奏でる津田さんもまた、その音色にプライヴェートの苦悩をにじませたりはしない。その苦しみをはるかに凌駕して、ダニエルさんと二人で作り上げてきた芸術を高らかに響かせる。

 日々の生活で、つい自分を甘やかしてしまう私は、この津田さんの強く真摯な姿に心打たれると同時に、恥ずかしくて赤くなってしまう。

 津田さんのWEBサイト外部リンクには、今後も適宜新しいコンサートの予定が追加されていくそうだ。お忙しい中でも、健康に留意されてますますご活躍されることをお祈りしている。2015年もスイスや日本での演奏活動を予定されているとのこと。中でも来年の4月にベートーヴェンのピアノ協奏曲の中でも私が一番好きな第5番「皇帝」がチューリヒで演奏されると聞き、今から待ち遠しく楽しみにしている。


ソリーヴァ江口葵

東京都出身。2001年よりグラウビュンデン州ドムレシュク谷のシルス村に在住。夫と二人暮らしで、職業はプログラマー。趣味は旅行と音楽鑑賞。自然が好きで、静かな田舎の村暮らしを楽しんでいます。

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