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「近代美術の巨匠展」というタイトルで退廃芸術を扱う展覧会 歴史認識のために

ドイツ人の画家、キルヒナーの作品「アルプスの日曜日」の一部。退廃芸術家のレッテルを貼られたキルヒナーは1917年からスイス・ダボスに住み、山や農民たちを描き、この分野でも重要な画家と見なされた。しかし、ダボスに住んでいたドイツ人たちがナチスに傾倒していく中、かなり精神的に追い詰められたといわれる。最終的には自殺している Kunstnuseum Bern

スイス・ベルン美術館で、ナチスが「退廃芸術」と烙印を押した同館所蔵の作品70点の展覧会が8月21日まで開催されている。しかし、実際会場に並んでいるのは、ピカソやマチス、クレーやキルヒナーといった近代美術の巨匠たちの作品ばかりで、「近代美術の巨匠展」という展覧会のタイトルが示す通りなのだ。ではなぜ、こうした名品がナチスから「退廃芸術」と見なされたのか?その答えを探ることでナチスの時代を再考し、また当時のスイスの姿も明らかになると、開催者は話す。

 会場に入るとすぐに目に飛び込んでくる作品は、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの「アルプスの日曜日」。緑と紫の色が支配するタペスリーのような大きなこの油彩の上には、1933年という購入した年が赤く表示されている。今回の展示品70点は、ベルン美術館が購入した、ないしは寄贈された年代順に並べられており、その年は2000年代まで続いている。

 またこれら70点は、退廃芸術という「枠」に入れるための二つの条件にも当てはまる。一つ目の条件は、キルヒナーのように「退廃芸術家と見なされた画家の作品」で、二つ目は「1933年から1945年までに制作された作品」だ。ベルン美術館にはこれに該当する作品が525点もあり、そのうち337点の出所が不明だという。今回展示される70点は、525点のうちの出所が確かなものが選ばれている。

 そして全作品の右下には、この作品が最終的にベルン美術館の所蔵になる前の経緯が詳細に記されている。ほとんどの場合が1937年にドイツの美術館から剥奪(はくだつ)されたという歴史から始まっている。

退廃芸術とは?

 この1937年の年について、展覧会を企画したダニエル・シュパンケさんはこう言う。「この1937年という年に、ナチスはドイツの101の美術館から約2万点の作品を退廃芸術と見なして押収した。つまり、国の文化遺産を美術館から奪い取ったのだ。翌年の38年に、この行為を合法化する法律を制定しているが、剥奪はもうすでに完了していた」

 そしてこの同じ1937年、ミュンヘンでは二つの大きな展覧会が同時に開催されていた。一つはナチスが理想とする「美」を展示した「大ドイツ芸術展」。もう一つが「退廃芸術展」だ。

 この「退廃芸術展」を撮影した白黒フィルムが奇跡的に残っており、そのコピーが今回展覧会で上映されている。そこには、多くの観客と壁いっぱいに飾られた多数の作品の多様性が映し出されており、それをシュパンケさんは「表現の多様性と表現の自由、これが当時の美術の特徴だった。こうした自由・多様性を『抹殺』するために、ナチスは退廃芸術というカテゴリーを作ったのであり、『退廃芸術』という美術のジャンルは存在しないのだ」と言う。

 そして、こうした美術界における否定は、ひいては当時の社会における言論や表現の自由、人々の在り方の多様性を否定したことになると強調する。また、退廃芸術についての当時の小冊子も展覧会で展示されているが、それを指しながら、「この中には、退廃芸術は『くそだ』といった、下品な恥ずかしい言葉が多用されている」と説明する。

 結局、今回の展覧会では1937年の「退廃芸術展」を再現するようにして作品を並べ、「近代絵画の特徴は多様であること」を一般の人に知ってもらい、その結果この多様性が否定されたことで、「退廃芸術とは何か?」という問いかけをして欲しいという。

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ベルン美術館の「近代美術の巨匠展」を写真で見る

このコンテンツが公開されたのは、 ベルン美術館で開催されている「近代美術の巨匠展」は、一見すると同美術館所蔵のピカソやクレーなどの巨匠の作品70点が展示された展覧会だ。 だが、こうした作品はナチスによって退廃芸術と見なされ、ドイツの美術館から剥奪された。…

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ナショナリズムはグレー

 ところで、今回の展覧会のタイトル「近代美術の巨匠展」は、スイス・ルツェルンで1939年6月にフィッシャー・ギャラリーで行われたオークションのカタログのタイトルから、そのまま取って来られた。つまり、退廃芸術とレッテルを貼られたピカソやマチスの作品は、スイスを市場として、スイス国内やアメリカなどに売られた。

 そして、この市場から上がる利益はナチスの重要な資金源としての役割を果たした。つまりは、ナチスはこうした「退廃芸術」が「お金になる」ということを知っており、言い換えれば、こうした作品の価値を認めていることになる。では、こうした仮面をかぶったような二重の行為はどう説明されるのだろうか?これに対し、シュパンケさんの答えはこうだ。「二重とも言えるが、白黒のはっきりしないグレーであるともいえる。このあいまいな『グレー性』がナショナリズムの特性だ。それは美術界だけではなく、あらゆる分野でそうだった」

スイスはドイツの対極に

 展覧会では、1937年のミュンヘンでの「大ドイツ芸術展」との比較として、1939年チューリヒで開催された「スイス国家展覧会(National Suisse Exhibition)」の一部も再現されている。二つの展覧会のコンセプトを象徴するのは、二つの大きな像だ。「大ドイツ芸術展」の方には、高さ16メートルもの古典的な裸体像が刀を片手に、すぐにも攻撃を仕掛けようと前方をにらんでいる。一方のスイスの像は、スイスをナチスの脅威から守るためにコートをはおり出かけようとしている男性で、わずか6メートルの高さだ。

 「ドイツの像の攻撃性に対し、スイスの像は国を守ろうとする当時のスイスの精神性を象徴している」とシュパンケさんは解説する。また文化・美術に関しても、「スイスには公的な一つの指針が存在しなかった。あったのは、非常にバラエティに富んだ表現を認める姿勢だけだった」と言う。そしてこのスイスのデモクラシーと自由さのお陰で、20世紀の芸術は守られたと付け加える。

 多様性を認めるこのスイスの姿勢は、社会全般にもいえることで、「20年から30年代のドイツのナショナリズムに対し、スイスにはデモクラシーがあった。国内では四つの言語を話し、単一性のない国スイス。当時のヨーロッパで唯一、ナショナリズムが支配しないこの国は、当時のドイツにとっては『危険』な、対極にある存在だった」

政治的な展覧会

 「1937年に、例えばベルリンのナショナル・ギャラリーからは約700点の近代巨匠の作品が押収されたが、全ての作品番号は克明に記録されている」とシュパンケさんは苦々しい表情で言う。「こうした組織化された略奪を行うのが、ナショナリズムなのだ」

 「このナショナリズムの台頭で30年代のヨーロッパはカオス状態だった。そうしたことも、この展覧会を通して知って欲しいのだ。歴史の確認になるからだ」と、続けるシュパンケさん。

 なぜそれほどまでに歴史の認識が必要なのだろうか?との問いに、ドイツ人であるシュパンケさんは、少し涙ぐんだ様子でこう言った。「ドイツ人は、つらいときを過ごした。戦後、子どもが父親に『お父さんは何をしたのだ』と追求した。父親はどう答えればよかったのだろうか…」。

 「ドイツ人にとっては、『全ては戦争だったからだ』で済ますわけにはいかなかった。過去を知ること、過去をきちんと分析し認識しないと、傷は癒えないし、先に進むこともできないと国民は理解した。日本も同様に過去の認識を行うべきではないのだろうか…」

 そして、今回の展覧会は美術展だが、さまざまな「物」を通して、スイス人もドイツ人も、そして日本人も、自分たちの過去を知る、いわば政治的な展覧会でもあるのだとくくった。

「近代美術の巨匠展」開催のきっかけ 

 この展覧会を企画したダニエル・シュパンケさんによれば、展覧会開催のきっかけは、1930年代にアドルフ・ヒトラー専任の美術商だったドイツのヒルデブラント・グルリット氏から収集品を受け継いだ息子のコーネリウス・グルリット氏が、いわゆる「グルリット・コレクション」を、ベルン美術館に寄贈するという遺書を書き、このコレクションの各作品の出所を突き止める作業を始めざるを得なかったからで、そのためにすでに所蔵されていた作品の「軌跡」も探ることになったからだという。

 しかし現在、グルリット・コレクションがどこに寄贈されるのかは不明だ。コーネリウスさんの姪(めい)が、「遺書を書いたとき、叔父は精神的にそういうことが判断できる状態ではなかった」という訴えを起こしたからだ。その決着は、今年の終わりにつく予定だ。

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